2021年3月24日

「他山の石」はしばしば使われる言葉。

四書五経のひとつ「詩経」の記述に基づく故事で、「他人のつまらぬ言行、誤りや失敗なども自分を磨く助けになる」という意味で使われる。

2019年7月の参院選広島選挙区をめぐり、公職選挙法違反の罪に問われた元法相で衆院議員・河井克行被告の裁判での発言に対し、自民党の二階幹事長がは23日午前、「議論の余地のないこと。党としても他山の石としてしっかり対応していかなくてはならない」と述べた会見(ぶら下がり?)をこの日のTVニュースで見た。
思わず苦笑してしまった。他山ではないだろう!自分の山(党)のことだろう!と。
21日の当コラムで日本の政治家たちの言葉はあまりに空疎だという新聞記事を紹介したばかりでまたこの失言?に出くわした。
いや、失言ではなくて幹事長の資質なのだろう。
この人が党の幹事長でいられるその辺りにこの党の問題(自浄作用が働かない)があるのだろう。まさに老害の典型とも言えるのでは・・・。
この場面をみていて不意に次の記憶が甦ってきた。
般若心経の中に「色即是空 空即是色」という件(くだり)があるのは周知の通り。
かつて(2013年2月27日)、十二代目市川団十郎が他界した際、息子の市川海老蔵が「団十郎が般若心経から『色は空 空は色との 時なき世へ』という辞世の句を残した」と紹介するTV映像を見たが、その場面で海老蔵がその辞世の句を紹介する時に「空(くう)」を「そら」と読んでいた映像をみて絶句したことを思い出した。
当方も詳しくはないが写経などを経験する機会があったので多少の知識があった。さすがに海老蔵のこのレベルを知って以来、海老蔵が出てくる歌舞伎などの映像は素直な目で見れなくなってしまった。
上記2件の例に共通しているのは・・・「言葉の重み」への理解とそれ語る際の自覚と言えるのではと思った。