首題の弊詠草は3月30日付け「やましん歌壇」の井上菅子選に掲載された一首です。
かつて(2013.08.12)、このコラムに「TVドラマから見る脚本家二人の違いはどこにあるか」というタイトルで下記(~部)のような内容をアップした。
その考えを短歌に詠んでみたらどのようになるか・・・選者(歌人)の評価に耐えられるか・・・と試みとして一首詠んだわけだが掲載に至り何とかクリアできたようだ。
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最近のTVドラマで次の二人のドラマを見る機会があった。
・山田太一の「よその歌わたしの唄」
・橋田寿賀子の「なるようになるさ」
二人の脚本家の違いは
「何を表現するか、どのような問題提起をしているか」
「見る側にどれだけ考えさせるか」
に尽きると思う。脚本家は手段としてのシナリオで表現する。
山田は作家でもあり、その作品に関心を持ってきたのでシナリオの作品も知っている。
例えば、「早春スケッチブック」、「今朝の秋」などを読むと分かることだが、
・会話が長くない
・会話と会話の間に「絶妙、微妙」とも言える【 間 】が設けられている
・ト書きからも脚本家の作品に対する考えや演技者への要望が読み取れる
シナリオ作品の読み手はそしてドラマになれば視聴者は必然的に「考えさせられる」ことになる。一方、橋田の作品はしばしば出演したタレントや俳優の笑い話として「台詞が長くて苦労する」などと紹介される。
今回の「なるようになるさ」はこれまでの作品の手法と変わり映えしない(脚本家の考えをこの延々と続く台詞で語っている)ことが分かる。
視聴者も考える暇もなく番組の流れに身を任せることになりストーリーの先が見えてしまい、場面展開の面白みなどもあまり期待できない。
「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」の好例ではないかと思える。
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