五輪日本招致が決定しここのところのメディアのバカ騒ぎや性懲りもない皮算用に少々うんざりしている。
想定はしていたが・・・小職の考えは連れ合いの問いかけに次のように応えていた。
決まったら淡々と応援するけど「本音は日本に決まってほしくない」よ。
なぜなら、また世間は(為政者は)待っていた!神風としてしまい本来なすべきこと(成熟&縮小社会における日本の(世界の)有りようのグランドデザイン)をしなくなることや五輪バブル(特需)になることは見え見えだから。
確かに五輪招致請負人の指導が良かったのだろうか日本にしてはなかなかの最終プレゼンという印象を持った。
ただし、首相の「福島は完全にコントロールされている」という発言を聞いてこのプレゼンが台無しになったと思った。
これは間違いなく「おかしい」ではないか!と誰もが思ったことに違いない。
新聞の一部でこの表現に対する記事を小さく取上げていたが「五輪招致」という神風に埋没していた。
このように嘯かず今回のようなプロジェクトアプローチを是非福島や震災復興に適用してくれ!と願わずにおれない・・・が、それは無理なことだろう。
今回「おかしい」と感じたことがきっかっけで想い出したことがあるので少々脱線するが紹介したい。
最近読んだ加納典洋、高橋源一郎の著書「吉本隆明が僕たちに残したもの」の中で高橋の「吉本隆明のことば」に次のような記載があった。
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中沢新一の書いていることとして、
「ぼくたちはすでに2000年近く等価交換をメインにして発達した経済と、そこから生まれた論理や倫理の世界に生きています。なので、それ以外のものを見るとおかしいと感じる。でもそこにとどまらず、ぼくたちの中にある、正しいけれども何か変だと感じる部分、ぼくたちの脳の古層にある別の倫理、別の感覚が、言語にならないのだけれども常に見張っていて、こういう一神教的な、あるいは等価交換的な正しさを見ていると、変だなと常に言っているそうです。」
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高橋の言葉として、
「・・・何か腑に落ちないよね。みんな言っていることは正しいけれども、俺は何か違う」ーそういうかたちで不満だけが残って消えていく。ただ何十年かに一度、何百年かに一度、そういうことばにならない正しさへの不満を言語化する人が、現れる。これがおそらく宗教家のキリストや親鸞であったり、あるいは吉本さんのような思想家なのでしょう、・・・」