2013年8月12日

最近のTVドラマで次の二人のドラマを見る機会があった。
・山田太一の「よその歌わたしの唄」
・橋田寿賀子の「なるようになるさ」

「よその歌わたしの唄」の概要と視聴者の感想の一部を挙げてみる。
http://drama-impression.info/%E3%83%95%E3%82%B8%E9%87%91%E3%83%97%E3%83%AC/21372/
http://blog.goo.ne.jp/motti_1984/e/cab55a92fbd7f2d744ae8bca5758cbf1

二人の脚本家の違いは
「何を表現するか、どのような問題提起をしているか」
「見る側にどれだけ考えさせるか」
に尽きると思う。

脚本家は手段としてのシナリオで表現する。
山田は作家でもあり、その作品に関心を持ってきたのでシナリオの作品も知っている。
例えば、「早春スケッチブック」、「今朝の秋」などを読むと分かることだが、
・会話が長くない
・会話と会話の間に「絶妙、微妙」とも言える【 間 】が設けられている
・ト書きからも脚本家の作品に対する考えや演技者への要望が読み取れる
シナリオ作品の読み手はそしてドラマになれば視聴者は必然的に「考えさせられる」ことになる。

今回の山田のドラマについてWebなどで取上げている中には今回の題材がつまらない、山田も老いたなどのコメントもあるが上記の山田の一貫したスタンスが分かれば納得がいくのではとも思ったりする。

一方、橋田の作品はしばしば出演したタレントや俳優の笑い話として「台詞が長くて苦労する」などと紹介される。
今回の「なるようになるさ」はこれまでの作品の手法と変わり映えしない(脚本家の考えをこの延々と続く台詞で語っている)ことが分かる。
視聴者も考える暇もなく番組の流れに身を任せることになりストーリーの先が見えてしまい、場面展開の面白みなどもあまり期待できない。

「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」の好例ではないかと思える。